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オーストリア・ハンガリーのエリザベート(愛称シシー)

人物

1837年ミュンヘンに生まれる

1898年スイスのジュネブで亡くなる

エリザベート・アマリエ・オイゲーニエ、シシーの愛称で呼ばれる、バイエルンの”ヴィルドファング・フォン・ポッセンホーフェン公爵夫人は、1854年、従兄の若かりしオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフと結婚しました。まだ17歳にもならない、ポッセンホーフェン家の領地で奔放に育った彼女は、スペイン議事書とウィーン宮廷の堅苦しい儀礼に大変苦しみ、また、皇帝は常に政府の用事で不在であったために、間もなく孤独を感じるようになりました。義理の母、ゾフィーが若き皇后の教育を受け持ちましたが、エリザベエートは、ハプスブルク宮廷をその態度や振舞いで示すことを初めて学ばねばなりませんでした。彼女には極めて厳格に規律や諦念・従順が要求され、それどころか自分の子供たちさえにもほとんど会わせてもらえませんでした。彼女の3人の娘たち、ゾフィー、ギーゼラ、マリー・ヴァレリーと息子のルードルフも厳しい宮廷の躾を受けました。

エリザベエートは、彼女なりにこの束縛や求められている役割に反発します。数多くの保養や旅で宮廷から遠く離れるよう試み、特に、独自に建てさせたコルフのアキレイオンに好んで滞在しました。皇后として国家の母としての義務から次第に逃避するようになりました。しかし、エリザベートはオーストリア・ハンガリーの調停の問題において仲介役として尽力しました。エリザベートは1848年のハンガリーの反乱以来持ち上がったハンガリーの帝国の他の国々に対する独立性に関する要求を成功裏に支持しました。彼女の努力が、1867年の皇帝夫婦のハンガリー国王戴冠となって実を結びました。

ひっきりなしの旅行と無鉄砲な乗馬での遠乗りに並んで、エリザベートは人目をひく自分の美貌を非常に気にかけました。断食や厳しいダイエット、何時間にもわたる早足での散策で女官たちを閉口させたりしました。しかし、知的関心も広げ、ハンガリー語やギリシア語の教師を雇い入れ、文学的知識を広げ、ハインリヒ・ハイネに敬慕し、その文体を模倣して自伝を文学的形式で書き、『詩的日記』が生まれました。

エリザベートは息子のルードルフ皇太子のが1889年に自殺した後、一層頻繁に旅に出るようになりました。憂鬱と世界を嘲る気持ちが強まり、次第に世間の目を恐れて、その美しさを扇子や日傘の後ろに隠すようになりました。悲劇がエリザベートの命を絶ちました。ジュネーブに滞在中、蒸気船に乗る直前に、イタリア人の無政府主義者に暗殺されたのです。

シシーはカルト的人物像であり、今日まで人々を惹きつける神話となっています。また、映画やミュージカルで取り扱われ、成功裏に興行収入を上げ、様々な形でマーケティングされてきました。